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宮地志行
闘病記録


昭和11年(1936)年賀状

「昨年7月重き神経痛に
左足膝関節を冒されて
就床以来今日に至るも
猶寝返りすら出来ず
臥床中であります。」
と無沙汰を詫びている

神経痛と書いてあるが実際は
結核菌が骨にまで入った重病だった

現在では結核は正しい治療をすれば
治る可能性のある病気だが
当時は難しい病気だった。
死亡までに16ケ月もの間、闘病した。
それ以前に結核菌に感染たと考えられる。




宮地志行
昭和11年(1936)6月23日
病床より両親宛
「子供の事をよろしく御願いいたします」
東京にて







慶應義塾大学病院
入院規定と領収書
昭和11年(1936)9月30日
入院料2等 9月25日~30日
6日分x6円 36円
手術処置料 15円
入院手数料 3円
計 54円

1936年の54円は
25万~35万円(2025年換算)

10月12日に死亡した。
病棟南3階378号室





昭和11年(1936)10月6日
児玉清から志行・光枝宛

手術で左足を切断するにあたって
見舞い。
すでに重病であり、足を切断したのか
それとも手術せず死亡したかは不明





昭和11年(1936)10月6日
画材店から宮地志行宛
病状を心配するのと
志行に依頼された展覧会の
出品画は無事搬入して
ご安心くださいとの便り

志行は死亡する直前まで
画業に命をかけていた
10月12日に死亡





宮地志行の霊に捧ぐ
宮地文一(志行の父)の歌
昭和11年(1936)10月17日
遺骨の家に帰る日

志行が亡くなった10日後の10月22日
(除籍謄本で22日、しかし
別に23日との記録もあり詳細不明)
志行の父の文一が亡くなります
息子を亡くした心労のためでした
悲しみは、いかほどだったかと想像される
志行のお骨を東京から持ち帰り
葬儀は志行と文一と合同で行なわれた




太平洋画会からの弔辞




沖野岩三郎からの弔辞




石井柏亭からの弔辞








安倍季雄からの弔辞




鹿子木孟郎からの弔辞




高橋虎之助からの弔辞




小山周次からの弔辞




医学博士長谷川誠からの弔辞




姉小路基衛からの弔辞




宮地文一への弔辞
(葬儀は志行と合同)

日吉信用販売購買利用組合
組合長渡辺寛而からの謹而




日吉高等尋常小学校長
奥村貫一からの弔詞




安倍季雄


安倍季雄 82歳
志行没後25年目の詩
昭和36年(1961)1月
「さきだち逝きし友
宮地志行を懐しみ」

安倍季雄はこの翌年亡くなった



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