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画家 宮地志行 遺作展の記録

平成26年(2014年)9月13日〜11月3日
長野県東御市・
丸山晩霞記念館にて

「青雲画士」物語 太平洋に馳せる夢
若き日本人画家たちの冒険と浪漫
と、併設
「特別展示 宮地志行」
が開催されました。


丸山晩霞記念館 案内パンフレット
(表・裏)





丸山晩霞記念館(東御市文化会館内)

宮地志行の出展作品(12点)

 
宮地志行 自画像
志行の妻 光枝

 
椿
ストーブを焚く少女

 
藤椅子の少女-1
藤椅子の少女-2

 
椿
裸婦群像

 
窓辺の裸婦
半原(志行の故郷)操り人形浄瑠璃

 
読書
雪景色(雪の半原)絶筆(志行最後の作品)

 
展示会場にある説明

(展示の様子)

 

 

 




図録(A4版・8ページ・作品12点)

  
自画像 1921年 油彩 65.0*53.0
ストーブを焚く少女 1915年 油彩 91.0*64.0


藤椅子の少女-2 1929年 油彩 100.0*80.3
藤椅子の少女-1 1927年 油彩 117.0*90.0

 
読書 制作年不詳 油彩 136.5*112.5
光枝 1926年 油彩 52.5*40.0


窓辺の裸婦 1932年 油彩 91.0*116.5
裸婦群像 1929年頃 油彩 136.0*161.0


半原操り人形浄瑠璃 1930年 油彩 105.0*86.0

椿 制作年不詳 油彩 41.0*31.8
椿 制作年不詳 油彩 31.8*41.0


雪景色(雪の半原) 1936年(絶筆)
油彩 91.0*116.5
アトリエ外観(当時)

 



丸山晩霞記念館だより 第1号
2014年7月15日発行

私の書いた記事(p3とp4)
「宮地志行のこと」


(p1/4) (p2/4)


(p3/4)


(p4/4)


「宮地志行(みやちしこう)のこと」
(寄稿文)

志行は私の祖父だ。私が生まれた時、すでに他界していた。
 東京の千駄ヶ谷に住み、画業なかばで結核をわずらい慶応病院
で亡くなった。45 歳の生涯。明治・大正・昭和の三時代を駆け
足で走り去った。

幸い、志行の妻光枝は存命だったので、私は志行の
ことを色々と聞いていた。アトリエは岐阜県の山里
の中、優しい光の中に静かに建っていた。室内には多
数の遺作が置いてあり、それを見ながら育った私は
今も絵画が大好きである。

私の父は、出征と戦後の混乱の中、とても志行の遺
作を整理する余裕は無く、私も仕事の忙しさを都合のいい理由に
して、暫く遺作は放置されていた。

 やっと私も数年前に定年を迎え、山形村の私の現住居にも何か
絵を飾ろうと思い立って、岐阜にある志行の絵を数枚持って来よ
うとアトリエ(老朽化で取り壊し現在は倉庫)に絵を取り出そう
と行ったのだが乱雑に積み重なっており、出すことも出来ない。
そこで重い腰を上げて整理を始めたが私の現住所から遠い為、未
だ仕事半ばである。
 
絵以外にも、色々出てくる、そこでホームページを立ち上げ発
見された資料を掲載しながら現在に至っている。

 世の中は不思議な縁で繋がっている。資料の中に丸山晩霞が志
行に宛てたハガキがあった。私がホームページで丸山晩霞を調べ
ていたら、“ 晩霞に関する資料があったら連絡を” という記述を
見つけた。早速に話した所、とても丁寧な対応をいただいた。佐
藤学芸員だった。運命の出会いだった。

 私は山が好きだ。大阪の大学時代の夏休みに石鎚山や北アルプ
スを歩いた。山にのめり込み、大阪では信州の求人は皆無に近かっ
たが、卒業と同時にアテもなく信州に引っ越し、翌日から職安に
行って“ 山が好きで引っ越して来たが何か仕事は無いですか” と
粘って雇用促進住宅に入居した。

 信州の山々を描いた丸山晩霞の水彩画は少しではあるが当時か
ら知っていた。山を見る目・山が好きで優しく見守る目は、おこ
がましいが晩霞と私は同じだと思っている。

 佐藤氏からは、寄稿するにあたり私に、“ まとめられてこられ
た志行に関することを綴っていただけるといい” 言われていたが、
私はいつも話が脱線する。勘弁願いたい。

 私の絵好きの為か、今でもつきあう数人の友人知人の画家がいる。

私は作品などを紹介するホームページを作るのが趣味で得意なの
で、会う度に、その友人知人たちに、“ あなたの作品を紹介するホー
ムページをタダで創ってあげる、そうすれば多数の人たちに見て
もらえて、記録にもなっていいじゃないが” と勧めていた。しか
し、いつになっても、彼等はあまり乗り気になってこない。ある
時、その中の親しい友人の一人に、“ 何か、自分のホームページ
良くないのかなあ” と聞いてみた。彼曰く、
 “ そうじゃない。絵を描く時は夢中になって全て他の事は棄て
置き、気持ちを集中して一番いいものを描こうと思って描く。そ
して、その時は、良い物が出来た、と思っていても数年経ち、百
枚以上も作品が出来て、今思うと、当時は良いと思って描いた絵
が何と幼稚で恥ずかしい物か、棄ててしまいたい絵が何十枚もあ
る。いつまでたっても、その繰り返しだよ。” というのだ。

 私は、“ 棄ててしまうなら、その絵を私にくれないか” と、喉
元まで出かかった言葉を、ぐっと堪えた。

 私は思った。
 そうだ、誰もそうだ。皆、前だけを見て未知の世界を知ろうと
描いている。

 作品を残そうとか、名を残そうとか、そんなことを少しでも思っ
たら絵は描けないものだ。後ろを振り返った時、その人は進むの
を止めてしまうのだ。

 それからというもの、私はホームページの話は出さない。彼等
も解っていて、自由にやっている。それでいい。

 きっと、志行もそうだった、と思う。

 志行の故郷の古い人に伝え聞いたことがある。

 志行は子供のころ、いつも棒切れを持って、地面に絵を描いて
いた。それが友達や村の人たちに人気で、彼は喜んで何でも描い
ているのが遊びの様なものだった、と。

 作品がどうのこうの、ということは後々の人がやればいいことだ。

 志行は、好きなだけ絵を描いて逝った、と思っていたい。

(宮地完行)



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