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画家 宮地志行の紹介

以下のリンクは表紙ページと同じものです

アトリエの記録写真や
志行の妻光枝・加知伴三について


1960年以前の宮地志行に関係する記事

1961年/昭和36年
宮地志行展
瑞浪市商工会館階上ホール


1994年/平成6年
宮地志行展
瑞浪市総合文化センター


2000年/平成12年
宮地志行展
瑞浪市市之瀬廣太記念美術館
の記録と
志行設計の日吉第一小学校
の記録


2014年/平成26年
梅野記念絵画館


2014年/平成26年
宮地志行展/丸山晩霞記念館


宮地文一・宮地美一・宮地兵次郎・
宮地市兵衛・熊崎玉樹・渡辺徳助・
兵次郎の中山道開削・
ウォルター・ウェストンの話


志行の故郷にある
半原操り人形浄瑠璃(半原文楽)


志行の故郷の近くを通る中山道


画集 「宮地志行 遺作集」
2014-2015発行


太平洋画会に出品した履歴

書簡リスト(調査済)

書簡リスト(未調査)

「宛名印記」(沖野岩三郎著)
「山内神斧君と宮地志行君」


以上のリンクは表紙ページと同じものです



  
宮地志行と妻光枝
撮影日不明


宮地志行(35才)と妻光枝(27才)



宮地志行(みやちしこう)略歴

参考:土屋千春著「半原物語」より引用
土屋千春氏については
このページの下段に記載

1891(明治24)年7月26日
岐阜県土岐郡日吉村半原に
父宮地文一(ぶんいち)
母けいの長男として生まれる
名は景樹(かげき)

父文一は、当時小学校校長
のち日吉村長となる




幼小より絵が好きで
鉛筆と紙さえあれば、又棒切れがあれば
地面に何時も絵を描いて
遊んでいたと言います

1901(明治34)年10才~1906年15才
半原学校は尋常小学校時代(明治41年まで)
は義務教育4年だった
当時、半原学校の生徒は40人
最上級生の4年生(14人)の中に
宮地景樹の名が残っている

岐阜県立東濃中学校
(1906年15才~1909年18才)
第一学年三ノ組
二年級二ノ組
三年級二ノ組
の学業記録が残っている

1909(明治42)年 18才 
卒業と同時に上京
岡精一(フランスから帰朝直後)の門下となり
後太平洋画会(明治35年創立)会員となる
高間惣七中村不折両画伯にも師事する
洋画だけでなく水墨画、水彩画など幅広く修業




岡精一(ハガキ表裏)

 
中村不折(ハガキ表裏)


1913(大正2)年
日本水彩画会創立の
発起者37名の内の一人となる
(宮地景樹の名で)。
他の発起者として、
石井柏亭・河合新蔵・丸山晩霞・
赤城泰舒・相田寅彦・
小山周次・後藤工志・寺田季一・
川上左京・小泉癸巳男、など


https://www.nihonsuisai.or.jp/outline.html

大正2年(1913年)日本水彩画会創立の記事
(日本水彩画会の資料抜粋)
下から4行上に宮地景樹(宮地志行)
の名がある



明治44年(1911年)東京小石川小日向水道町
大日本水彩画会研究所研究時代

(中央の印が宮地志行・当時は宮地景樹の名)

この写真撮影の2年後に宮地志行は
日本水彩画会創立の発起者の一人となる

***** お願い *****
この写真に写っている画家たちで誰か
名前が分かる人がいたら、ぜひ教えてください
発起者のうちの何名かは
ここに写っているはずですが
今となっては誰かわからないのです
ご協力いただければ、とてもありがたいです
******************





富士山登頂記念写真
「大正五年 富士登山ノ際 頂上ニテ記念撮影
熊崎健一郎・宮地志行・杉井氏・熊崎康人」
と書いてあった。(1916年)

熊崎健一郎と康人は兄弟
康人の長男が熊崎玉樹で
朝日新聞社報道カメラマン
康人の妻が「ふで」で宮地志行の妹
杉井氏は不明
左から2人目が宮地志行
後方は富士山の火口、白いものは残雪
今から思えば驚くような服装だ

Mt. Fuji(3776m) summit commemorative photo.
"Taisho 5th year(in 1916),
when climbing Mt. Fuji,
commemorative photo of the summit
Kenichiro Kumazaki, Shikoh Miyachi,
Mr. Sugii, Yasuto Kumazaki ",
Was written.

Kenichiro Kumazaki and Yasuto are brothers,
Yasuto's eldest son is Tamaki Kumazaki,
a news photographer of Asahi Shimbun.
Yasuto's wife is "Fude" and is the younger sister
of Shikoh Miyachi. Mr. Sugii is unknown.
The second person from the left is
Shikoh Miyachi.
The crater of Mt. Fuji is behind,
and the white one is the remaining snow.
It's amazing clothes from now on.
Shikoh Miyachi is grandfather
of me(Hiroyuki Miyachi)

この写真について
ポーランドの友人から
以下のメッセージが届いた

Beautiful photography, interesting story,
I am very impressed.
I watched and read with great attention.
(January Zaradny, 2022/05/30)
美しい写真、面白い話、とても感動しました
私は細心の注意を払って
見たり読んだりしました



1918(大正7)年 27才
加知光枝
(明治32年1899年11月15日
-昭和55年1980年5月20日)
と結婚

1919(大正8)年 28才
長女生まれる


1922(大正11)年 太平洋画会准会員推薦状




「本会評議員会の決議に因り今般貴下を
本会准会員に推薦致候也」
大正拾壱年九月 太平洋画会
宮地志行殿


1923(大正12)年 31才~
長男生まれる。

東京と岐阜との二重生活が続き
東京においては、
横山大観、下村観山を始め
童話作家安部季雄・
沖野岩三郎・久留島武彦・
版画家小山良修・八木皎平
作家横山美智子・大仏次郎・林芙美子・
北川千代、画家石井柏亭
とも親交をむすぶ

→書簡リスト調査済みはこちら

→書簡リスト未調査の一時ホルダーはこちら


大正13年 岡(精一)先生アトリエにて


昭和初期より雑誌の挿絵・絵本も手がける
(主婦之友・コドモノクニなど)
ラジオ雑誌・時事新報・
雑誌「少年」「少女」「主婦之友」
などの挿絵を執筆

一方地元では、
画業の他に母校の
日吉第一尋常高等小学校の
改築・設計案(昭和6年)を担当
中でも中央玄関ならびに
二階の大会議室(後の図書館)
の構想は当時東濃地方随一と言われた
(-->詳細はこちら

土雛や、郷土の半原操り人形浄瑠璃のための
大道具・小道具等も主なものは
殆ど志行の製作であった。
(昭和29年(1954年)の不慮の火災に遭って
全部焼いてしまったのは大変残念だった。)
(-->詳細はこちら


1930(昭和5)年3月30日
太平洋画会に会友として推薦された



本会の決議に依り貴下を
本会展覧会会友に推薦致候間
今後共本会の為御尽力被下度候
昭和五年三月三十日 太平洋画会
宮地志行殿


https://www.taiheiyobijutu.or.jp/deceased
下から3行上に宮地志行の名がある


太平洋画会の第29回展覧会招待状
(開催・昭和8年4月2日~14日)
於東京府美術館









宮地志行に届いた岡精一の個展案内状


1933(昭和8)年4月8日~10日 42才

東京銀座の川島東京店(天金筋向)にて
個展を開催する。
この時の「宮地志行個人展覧会目録」
が残っている



絵の売価が記されていて興味深い
(当時の大学卒初任給が50円~100円ぐらい)



1933(昭和8)年4月10日(月曜日)の個展の
芳名録に安倍季雄(あべすえお)
の名がある(左端)
中央の伊藤喜朔(いとうきさく・1899-1967)は
舞台美術家、美術監督。伊藤熹朔賞に名を残す


1936(昭和11)年 45才
10月12日東京慶応病院にて死去
昭和10年夏に手術、しかし治癒せず
病名は「カリエス(結核)」
と伝えられていますが詳細は不明です


志行の葬儀に
太平洋画会から届いた弔辞



上は、
志行の葬儀に、安倍季雄から届いた弔辞

安倍季雄
(あべすえお・1880-1962・
明治13-昭和37・童話作家)
が寄越した見舞いの葉書が残っている

 

スタンプの日付は昭和10年10月16日
「どうです痛みは?。早くなほって下さい
病気と仲良しになるほど
ばかげた事はないですよ
今日はのんびりお湯にひたりながら
君の事を考へて居ます
皆さんによろしく。」

写真左の久留島武彦
(くるしまたけひこ・1874-1960)
は大分県出身の児童文学者、
童謡『夕やけ小やけ』の作詞者。

 



安倍季雄先生
時事新報社・少年少女編集局にて
(大正14年)

安倍季雄は明治41年(1908年)
時事新報社に入社
「少年」「少女」の編集主幹
をつとめ自らも執筆
口演童話を各地で実演、昭和27年
久留島武彦と全国童話人協会を設立





安名尊(あなとうと)
継宮様(つぐのみやさま)
御初(は津)日(初日・おんはつひ)
(安倍季雄・書、
1934年元旦・宮地志行に贈ったもの)
24.2x27.3

安名尊は催馬楽(さいばら)
(平安時代の祝賀の歌)
継宮様は昭和天皇の第一皇男子・明仁天皇)
お生まれが昭和8年12月23日にて
昭和9年元旦、御誕生祝いの書



 
沖野岩三郎
(下記「やんばうさん」の作者で
挿絵を志行が描いている)
沖野岩三郎は宮地志行に、「やんばうさん」の
挿絵を描く話を進めてくれた恩人である



 

 

 
山内金三郎(画号は神斧)
主婦之友社の編集長
(その後、阪急百貨店美術部)
沖野岩三郎の「やんばうさん」の挿絵に
志行の絵が良いと進言してくれた恩人である

その後、
志行は主婦之友に執筆する仕事を得たが
一年ほど経って志行は病に倒れる

この内容の引用は
国立国会図書館の近代デジタルライブラリー
「宛名印記」(沖野岩三郎著)
(コマ番号86-89)
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1238995
内容の一部
「山内神斧君と宮地志行君」はこちら
情報を提供していただいた方は
Y.H.氏。有難うございました


志行が亡くなった10日後の10月22日
(除籍謄本で22日、しかし
別に23日との記録もあり詳細不明)
志行の父の文一が亡くなります
息子を亡くした心労のためでした
悲しみは、いかほどだったかと想像されます
志行のお骨を東京から持ち帰り
葬儀は志行と文一と合同で行なわれました


昭和11年10月17日、
宮地志行の遺骨が東京から家に帰った日
文一が病床にて口ずさんだ
志行の霊に捧げる歌


宮地志行の時代背景について
引用文献 「宮地志行展」

宮地志行は明治24年(1891年)生れですから、
梅原龍三郎(1888年)・安井曽太郎(1888年)
佐伯祐三(1898年)・中村つね(1887年)らと
同年輩ということになります。

明治画壇の雄、黒田清輝(1866年)
は志行より25才ほど年長
我が国の洋画界の祖ともいうべき
地元明智町出身の山本芳翠
(wikipedia)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B1%B1%E6%9C%AC%E8%8A%B3%E7%BF%A0
は41才ほど年長ということになります

志行が上京したのは
明治42年(1909年)のことです

当時の我が国の画壇の状況は
どうであったかといえば
山本芳翠、黒田清輝、藤島武二
らによって移入された
ヨーロッパ絵画の流れがようやく定着し
白馬会・文展を中心に若き芸術家達が
めざましい活動を展開し始めている頃でした

また日本画の分野では岡倉天心、橋本雅邦
横山大観らによって進められた
新しい日本画の開拓が着実に実を結び
日本美術院が創立されるなど
大きな盛り上がりを
みせた時期にあたります

この後我が国の洋画壇は
梅原龍三郎・安井曽太郎の相次ぐ帰朝者を迎え
いよいよ成熟の時代を迎えることになります

ヨーロッパから後期印象派
フォービズム、キュービーズム、
シュールレアリズム、ナビ派
ドイツ表現派などの
さまざまな画風が移入され、個の確立が
叫ばれる時代になってきました

絵画団体の分派独立が
盛んに行われるようになるのも
ちょうどこの頃からです。
文展からの二科会の独立、光風会の創立など
日本の洋画界がめまぐるしく変動する前夜
まさにそういう時代に志行は
激動の洋画壇に身を投じ
たことになります

宮地志行が師事した画家
引用文献 「宮地志行展」

宮地志行が師事したのは
太平洋画会の岡精一(1868~1944)
ということになっています

太平洋画会は明治34年、黒田清輝率いる
白馬会から袂を分った浅井忠、松岡寿、
小山正太郎、油谷国四郎らによって
設立されました
後に鹿木孟郎も参加することになりますが
宮地志行が師事した岡精一も新帰朝者として
この太平洋画会の会員であったわけです

ついでに少しこの頃の
明治洋画壇の二つの大きな
潮流についてふれておくことにします

一つは、黒田清輝率いる白馬会
そしてもう一つの流れは
浅井忠率いるところのこの太平洋画会系

しかしながらこの二重構造の如く
対立したこの二派も
その源流はフランスの印象派風アカデミズムの
画家ラファエルコランおよび
ローランスにあったのですが、
ラファエルコランもローランスも
印象派というにしては余りにも守旧派で
殆ど両者のあいだには差異がなかったのです

当時フランスにおいては
すでにアカデミズム絵画は
自然主義・印象主義・後期印象主義などの
めざましい台頭により、次第にその主役の座を
奪われつつあったのです

衰退の道を辿りつつあった
このアカデミズム絵画を
最新のヨーロッパ絵画として
黒田らの手にによって
我が国の中枢(東京美術学校、文展など)に
植えつけられてしまったところに
日本の洋画界の特殊事情が
存在することになったのです

当然のことながらこれより少し先になると
ヨーロッパから最新の画風を
身につけた俊英達が続々と帰朝し
我が国の洋画壇はかつてない
沸騰の時代を迎えることになります

そして、大正デモクラシーの時代へと
流れていくことになります。

宮地志行の画風
引用文献 「宮地志行展」

宮地志行の画風については
前項でも触れましたが
所属した絵画団体が
太平洋画会と言う事もあって
きわめてアカデミックな画風を身につけました

10代のデッサンや
水彩画「小栗兵左衛門肖像」を
ご覧いただければお判りになると思いますが
生れながらにすばらしいデッサンカを
身につけていましたから
当時としては当然の選択であったと思われます

但し上京して間もない頃には
後期印象派に大きく心を
ゆさぶられた時期があったことも見逃せません
スーラ・シニャックの影響か
と思われる「漁港風景」が
そのなによりの証しといえます

その他にも「赤松」などは
セザンヌの影響も垣間見られますし
晩年の一時期には
フォービズム風の一連の静物画も
数多く製作されています
しかし志行の基調となる画風
は一連の人物画に見られる外光派風の
アカデミックなもののようであったようです

もし志行に渡欧する機会があったとしたら
恐らく事情は一変していたことであろう
と推測されます

45才の若さで死んでいった志行にとって
自己の絵画を確立するだけの時間が
残されていなかったことが
悔やまれます


出版物

幼年冒険小説集
安倍季雄 宮地志行
昭和4年(1929年)

冒険童話 しろくろ大使
水谷準(文)宮地志行(絵)
主婦之友
昭和9年6月号

冒険童話 しろくろ大使
水谷準(文)宮地志行(絵)
主婦之友
昭和9年9月号

小公子物語
村岡花子(述)宮地志行(絵)
主婦之友
昭和10年1月号

母の心
並川千代(述)宮地志行(絵)
主婦之友
昭和10年9月号


主婦之友 昭和9年9月号


やんばうさん
(主婦之友昭和9年3月号附録)ほか
(1934年)
沖野岩三郎 文 宮地志行 絵
主婦之友社


主婦之友
昭和9年新年号附録


主婦之友
昭和9年2月号附録


主婦之友
昭和9年3月号附録


主婦之友
昭和9年4月号附録


主婦之友
昭和9年5月号附録


主婦之友社
発行昭和9年5月1日(5月号)


優良コドモヱホン
「桃太郎」ほか

著作・発行:須藤次雄・須藤雄鳳堂
印刷:金井直造・金井信生堂
宮地志行 絵
昭和10年(1935年)1月15日発行

 



 

以上は普及本


優良コドモエホンの裏表紙
“親御様方へ”という安倍季雄の添書がある。

 近頃、芸術的教育や、情操教育の立場から、
一般識者の間に、絵の教育と言ふ事が
やかましく論議され、留意されるやうに
なつた事は、喜ぶべき事であります。
誰しも、美しい上品な絵を見て居ると、
自然心が美しく上品になつて参ります。

子供とても同じ事で、美しい絵、上品な
絵を見る事によつて、どれだけその品性が
美化されるか分りません。
それが即ち絵の教育です。
絵の力です。
決して絵そのものを教へるのでなく、
絵の力によつて子供を上品に、
美しく育てて行かうといふのが、絵の教育
の本音であります。

 この『優良コドモヱホン』は、主として、
最も子供を知り、常に子供と共に生活し、
童画家として日頃私の最も尊敬して居る
宮地志行君の苦心の作になるもので、
内容といひ、色彩といひ、印刷といひ、
実に申分ない出来ばえであります。

どなたのご家庭でも、安心してお子様方に
御興へになれる優秀な絵本として、
推奨する所以であります。

優良コドモエホン(優良コドモヱホン)
シリーズ

① 桃太郎(宮地志行) 
② サルカニ合戦(宮地志行)
③ ヂャウチャン(長谷川露二)
④ イソップ(宮地志行) 
⑤ 僕は軍人大すきよ(梁川剛一)
⑥ 青イ鳥(宮地志行) 
⑦ 動物園(宮地志行) 
⑧ ヨイコニナリマセウ(宮地志行)

(⑥青イ鳥は欠品、
また③⑤は著者が異なる為に欠品)


 



 

以上四点は化粧箱入りセット本として販売されたもの。
表紙の絵は普及本と異なるが内容は同じ。


土屋千春氏について

土屋千春氏が執筆された
「半原物語」は歴史書として
正確な史実と資料によって記載されており、
現在、半原に残された
貴重で唯一無二の書である。

雅に、御氏がこの書を執筆されなかったら
半原の歴史は掘り起こすことは永久に
不可能となっていたであろうと思う。
残念なことに、氏は故人となられている。

「半原物語」は、こちら

現在はアーカイブを取り、
二重に保存・バックアップされている。


「半原物語」はB5サイズ152ページの大作であり
一冊3部構成となっている。

第一部
半原の七不思議・
濃州循行記・廃仏毀釈・
操り人形浄瑠璃・御神霊三本檜・御鍬様御巡行
日吉神社・半原の医者・紙谷の天神様・
秋葉様・半原学校・半原人物史

第二部
古い道・庄屋様・半原人物史・
半原の俳人歌人・
電灯がともった話・方言・
操り人形浄瑠璃・半原寿会

第三部
半原人物史・半原音頭・日吉音頭・
御詠歌会・三十三体観世音・古文書・
昔の暮らし・絵本太功記と明智熙子・
日吉郷土史・照玉社
について詳細正確に記載されている。

この中の「昔の暮らし」では、貰い風呂・
お蚕様・瞽女(ごぜ)・捨て針(鰻釣り)・
水との付き合い・ヘボすかし・
鳥屋(とや)、について書いてある。


土屋千春氏の略歴
(「半原物語」末項より引用いたしました。)

大正6年(1917)
岐阜県瑞浪市日吉町半原に生まれる。
土岐津尋常高等小学校入学、
多治見尋常高等小学校卒業。
恵那中学校入学、東濃中学校卒業。
東京府豊島師範学校卒業。

昭和11年(1936)
東京・深川尋常小学校に新任、
四谷区四谷第二小学校
(後、山梨・下部町へ疎開)

昭和21年(1946)
岐阜・長良小学校へ転任。

昭和26年(1951)
多治見市教育研究所・
多治見市教育委員会指導主事。
瑞浪市教育委員会指導主事・
瑞浪市教育研究所員。

昭和31年(1956)
土岐市方言調査を始める。

昭和33年(1958)
市教育委員会より
「郷土のうつりかわり」を発刊

昭和35年(1960)
瑞浪・明世小学校に校長として新任、
日吉第一小学校長、
釜戸中学校長、瑞陵中学校長。

昭和42年(1967)
勤続30年表彰。

昭和51年(1976)
瑞浪市永年勤続表彰として銀杯受領。

昭和52年(1977)
定年退職。
中部工業大学付属高等学校
日本史の講師として2年間教鞭をとる。

平成7年(1995)
勲五等雙光旭日章を授与される。
老人会長として、半原物語を執筆、
老人会で配布する。


「瑞浪のふるさと人物史」より、
宮地志行について




宮地志行





「瑞浪のふるさと人物史
(瑞浪市退職校長会発行1995年)」より
引用させていただきました。



宮地志行の妻、、宮地光枝。
いくつかの作品のモデルになった。

 
太平洋画会から
宮地君枝(光枝を改名)に届いた葉書

宮地志行遺作品中、
栗の絵の希望者があり売約致し誠に結構な事、
一割を会則により太平洋画会に頂戴致し
他は本会より御送金申し上げる、という文面。
葉書は昭和12年2月27日付。

東京銀座の川島東京店(天金筋向)にて
個展を開催した時の
「宮地志行個人展覧会目録」に
「栗」50円、と記されている。
この目録は昭和8年であるから、
売約の「栗」がそのものかどうかは不明。


 

 
児玉充弘(コダマミツヒロ 1904-1981)
写真(表・裏)
安倍季雄が志行の妻光枝(君枝)に送った
写真在中の封筒

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